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受験勉强法

2017.03.07

  • 受験勉强法

受験勉强の方法-伦理(センター试験)について

こんにちは、今回の記事では倫理(センター試験)の受験勉强法について書かせて頂きたいと思います。全体的に「後から考えれば、こうしたら良かったのではないか」といった話が多いので、実証性に乏しいという点は言い訳できないのですが、私のやっていたのと似たような勉強法を採用していて且つ上手くいっていないとか、あるいは後述する「どうもここが分からない」という点に共感できる、という方には、そういう話を参考にして頂ける見込みは大きいと考えます。

「倫理」画像出典"By Mylius - 投稿者自身による作品, GFDL 1.2, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=14856016"

画像出典"丑迟迟辫://箩补.飞颈办颈辫别诲颈补.辞谤驳/飞颈办颈/%贰6%础顿%础3%贰7%叠贰%础9"

 

私が実际にやっていた伦理の勉强というのは、ノートをまとめたり问题集(过去问集を含む)を反復して解いたり、どうしても意味がつかみにくい所(専门用语など)を検索してみたり、といった作业でした。これらの具体的な作业自体は、今振り返ってみても、□教材、特に问题集の选択□各作业にかける时间配分、如何ではそれほど非効率的ではないと思っています。しかし私は、下に述べるように伦理(センター试験)の问题の解き方というものをいまいち理解していないため、正解という目的と具体的な作业との繋がりが曖昧なまま、ただ漫然とこれら作业をこなしていたように思います。

 

さて、伦理のセンター试験で大きな割合を占めていたのは正误判定、つまり短い文に正しいか误りかを振るという形式のものであったと记忆しています。私が「どうもここが分からない、判然としない」と思っていたのは、まさにこれです。解答解説を読めば、ある短い文が正/误である根拠は明确に书いてあるし、また「まず①番と④番は明らかに误りなので消去することができ...」とかいった総合的な"解き方"というのも読めばなるほどと思えます。が、自分がなぜどこで间违えたのかという点がいまいち判然としない、といった消化不良感がありました。この教科は「范囲は比较的少ないが思考力と読解力が必要で単なる暗记では7割までしかいかない。」("丑迟迟辫://箩补.飞颈办颈产辞辞办蝉.辞谤驳/飞颈办颈/%贰3%82%叠叠%贰3%83%叠3%贰3%82%叠贵%贰3%83%叠颁%贰8%础9%础6%贰9%础8%93冲%贰5%80%础叠%贰7%90%86%贰5%础贵%叠贰%贰7%础顿%96")ということが言われますが、まさに、自分が暗记不足で间违えたのかそれとも暗记しかしていなかったために残り3割で力及ばず间违えたのか、といったことが分からなかったわけです。

 

以下基本的には、正文选択形式を念头に置いて进めます。

 

上のような経験から、どうしたらそれら正误判定问题を解けるのか(なぜ间违えたのか)と考えていて私が最近思うに至ったのは、「最も适当なものを选べ」という相対的な问题形式が决定的に重要であるという事、それから、次のような原始的な発想から出発するのが良いのではないかという事、です。その原始的な発想というのは「教科书に入っている全ての文の内容を、记忆から教科书の原文を正しいと判定できるくらいに覚え、そこから常识的な言い换え等だけで导かれる文だけを正とする。」というものです。この方法は、第一に「内容を全て覚える」という部分が非现実的ですが、兎も角これについては(i)で详述します。第二に、仮に実行できても、これでは正とするべき问题文のうちほとんどを误とすることになり、问题は解けません。これについては(ii)で详述します。なぜそんな无益そうな発想から始めるのかといえば、このように全ての典拠を教材に求めた场合、つまり仮に教材を丸暗记できていた场合どこまで肯定できたのか、という限界を知り、そこから先が推理?思考?読解などの领域だと知ることで、解答の过程を切り分け自分の间违えた箇所を把握しやすくするためです。

ところで、教材が丸暗记できていれば「明らかに误った问题文」というのも指摘できるはずですから、教材の丸暗记だけでは解けない」ということは全くないでしょう。しかし、教科の性质上「教材(自分が典拠を求める场所)には载っていないが、正とも误とも判定できない文」と「明らかに误った文」とが本质的に大差无いと私は考えるので、そのうちの「明らかに误った(问题)文」だけを指摘するという技术?作业は既に推理?思考?読解などの领域にある、として区别しているのです。

 

(i)

 

上の「文の内容を、记忆から...くらいに覚え」とかいう物言いが引っかかるところであり「文を覚える」ではダメなのかと问われるかもしれませんが「文の丸暗记ではなく内容を理解しなさい」といったごく一般的な方针から「文を覚える」では不适なことがすぐ同意されることでしょう。しかしこの、"内容を理解"するというのもいささか曖昧な表现ですから、これを次段落のような点を踏まえて私なりに分かりやすく言い换えたのが、上の物言いです。

 

内容を理解していた/していなかったというのは往々にして问题が解けた/解けなかったことをもってそう言われることが多いと思います。であればそもそも、内容を理解しているか否かというのも、问题を解くのに必要な情报がその记忆内容に入っているか否かに、つまり、正と判定すべき文(教科书の原文など)をその覚えている内容から正と判定できるか否かに依存している、というのは自然な考えではないかと思います。たとえば吉田光他『高校倫理』(2013)(※以下「教科書」)の「天台宗の僧源信が『往生要集』をあらわし,当時の貴族社会に大きな影響を与えた。」(p.78、ルビ省略(=以下同じ)。この文を(A)。)という記述を例にとります。私が、少し言い方は違うがこれにほとんど近い(A)'という意味内容を覚えていたら、上の(A)のような問題文を正と判定できるでしょう。またしかし、私が(B) 「源信の書いた『往生要集』に、当時貴族社会は大きく影響された。」という意味内容までしか覚えていない(宗派の情報が抜けている)とすれば、実際試験で求められる(A)のような問題文の正誤判定を解けないことになります。なぜなら源信の宗派しだいで(A)の正誤は変わってくるからです。

「源信」画像出典"By 谷文晁ほか - sw21akira (2007/6/10(日)). 6月10日、【源信忌】. 今日の出来事ロジー. Retrieved on July 2012., パブリック?ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=20094526" 

画像出典"丑迟迟辫://箩补.飞颈办颈辫别诲颈补.辞谤驳/飞颈办颈/%贰6%叠础%90%贰4%叠贵%础1冲(%贰5%83%础7%贰4%叠贰%叠6)"

 

(ii)

 

次に、「...常识的な言い换え等だけで导かれる文だけを正とする。」という后半部分に注目します。実际それでは问题に正解できないと书いたのは、「この中に唯一つ十分适当なものがあるのでそれを选べ」という形式を想定したこのような考え方に対し、基本的に试験は「最も适当なものを选べ」という形式になっていることに因ります。つまり、「正を振るべき问题文も、十分に(教科书の内容のみから导かれるほどに)适当とは限らないが、他の问题文に比べればマシ(最も适当)」という相対的な解き方が前提されているために、十分适当な问题文だけに正を振っていたのでは解けないということです。

「十分に適当」「最も適当」

 

たとえば、平成28年度センター试験本试験の「伦理」大问3小问6では「宣长による儒学批判の内容として最も适当なもの」が问われており、ここで正とされる问题文は「嬉しいことを嬉しく思い,悲しいことを悲しく思うのは,事柄に相応して感情が动く人间本来のあり方なのに,儒学の教えが何事にも道理を先立て,妄りに心を动かさないよう説いているのは,うわべを饰る偽りである。」との文です。これを仮に「(1)嬉しいことを嬉しく思い悲しいことを悲しく思うのは、事柄に相応して感情が动くというあり方である。(2)人间本来のあり方とは、事柄に相応して感情が动くというあり方である。(3)儒学の教えは何事にも道理を先立てる。(4)...」と分解したときに、それら全てが真でありさえすれば、文句なしにこの问题文に正を振ることができそうです。

 

まず(2)に関しては、教科书辫.95に(痴)「人间が[...]『もの』(客観)にふれたときにわきおこる,しみじみとした感情こそが[...]人间性の本质である」とあります。"人间性の本质&谤补谤谤;人间本来のあり方"や"「もの」にふれたときにわきおこる(感情)&谤补谤谤;事柄に相応して动く(感情)"という変更を许せば、教科书の记述は、(奥)「人间の、事柄に相応して动く、しみじみとした感情こそが、人间本来のあり方である」、ひいては(齿)「人间本来のあり方とは、事柄に相応してしみじみとした感情が动くというあり方である」というところまで、无理なく持っていくことが出来ます。このように无理の无い言い変え等だけで教材の记述から导かれる文というのは(2):≒(齿)以外の部分にも见つけることができるはずです。

 

またその他に、复数の记述を见れば教科书の文脉上およそ正しいと言えるような部分というのも、问题文の中に见つけることが出来るでしょう。たとえば教科书辫.95の「宣长は,[...]真の姿を明らかにしようとした。そのためには,儒学を汉意として排斥し,」という记述を见れば、「"真の姿を明らかに"するために"排斥"されるもの(儒学)は、"うわべを饰る偽り"に类するものに违いない」という理屈で问题文に含まれる「儒学の教え(が...すること)は、うわべを饰る偽りである。」という内容に真を付けることがありえます。

「本居宣長」画像出典"By Motoori Norinaga - http://www.cityu.edu.hk/ccs/Newsletter/newsletter3/HomePage/CulturalDiff/CulturalDiff.html, パブリック?ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2711824"

 画像出典"丑迟迟辫://箩补.飞颈办颈辫别诲颈补.辞谤驳/飞颈办颈/%贰6%9颁%础颁%贰5%叠1%85%贰5%础贰%础3%贰9%95%叠7"

 

しかし困るのは、このように教科书の记述から无理の无い言い変え等だけで导けるような部分(前々段落参照)や教科书の文脉上正しいと见なせるような部分(前段落参照)を拾い尽くしても、おそらくは、なお正しいと言いきれない部分が问题文中に残ってしまうだろうということです。これが、最初から「実际そうだけしていたのでは问题形式に対応できない」としてきた理由です。したがって、そこから先は他の不适当な问题文(选択肢)を消去する等の方法による解き方が、「最も适当」という问题形式では前提されているように思います。このように、全ての典拠を教科书に求めた场合に导ける范囲、そこから先で推理?思考?読解などを要する范囲、というものを自分なりに切り分けていくことが、正误判定问题を深く理解するうえで重要であると结论します。

 

以上、伦理(センター试験)の问题の解き方について思うところを书かせて顶きました。私と同じようなタイプの消化不良感におちいっている方は、ぜひ一度、上のような考え方の正否を検讨してみてはいかがでしょうか。今回も长文乱文に最后までお付き合い顶きありがとうございました。それではまた。

Profile

所属:経済学部2年生

出身地:东京都